お酒のこと 3


本の信頼性を確かめる方法としては、その本の中のコニャックに関する説明を読んでみるのが、最も手っ取り早い方法です。


それはコニャックというフランス産のブランデーが、コニャックという名称そのものについてはもちろんのこと、品質表示についてもフランス政府の厳しい規則の下にあって、その世界的に有名な品質を保持している酒だからです。


このようにラベルの表示を読む方法さえ知れば、別に玄人でなくても、「通」でなくても、概略の品質水準がわかるという、コニャックのためにフランス政府が定めている統制名称について、正しい説明が不足しているというのはまだましな方で、一行の説明さえ加えていない専門書が書店の棚に並んでいるのが10年前の状態でした。


今では少しはよくなったようですが・・・。


なぜ、こういうことが起こったかはおいおい説明することとして、フランス政府が1909年に定めたコニャックの等級地別があります。

お酒のこと 2


コニャック

この数年の間に日本人の洋酒に対する好みも大きく変わってきました。


ウイスキーだけでなく、ワイン、ブランデーと、飲む人の趣味の幅が広がっております。


それにつれて、洋酒の本が、小はポヶット版から大は大辞典クラスの大きさに至るまで無数に出版され、消費者だけにとどまらず、小売店や、デパートの洋酒担当社貝の勉強用にもよく売れているようです。


しかし、一部の真面目な本を除いては、キワ物的な出版が多く、ひどい例では、ワインの味の甘口、辛口を間違えているような、はっきり言えば、種本からの写し間違いが堂々と書かれている本もあります。

お酒のこと 1


三倍増醸酒が「日本酒」として通る所に酒飲みの一寛大さ」があるのでしょうか。


三倍増醸酒では、ジエチレン・グリコールほどでないにしても、エチル・アルコールで薄められた味を調えるために、有機酸、ブドウ糖、水飴、化学調味料などが適当に添加されます。


その中でも、食品添加物としての乳酸は、かつて国連の世界保健機構/食糧農業機構が安全性について警告を発した化学物質でもあります。


このように「毒入りワイン事件」から出発して糸をたどっていけば、問題を含む酒の類はいくらでも出てきます。


これは、我々消費者の気のつかなさ、忘れっぽさ、さらに甘さを物語るものでもあります。


決して「忘れない」ようにしたいものです。

壁大工

「壁大工」は明らかに上塗だけの担当者であって、中塗工程までとは別人であったことになるでしょう。


いずれにせよ、教言邸の壁工事では荒壁から上塗まで一貫して担当した職種は存在しなかったことになります。


なおつけ加えれぽ、相国寺(京都)鹿苑院歴代院主の日記である『鹿苑日録』によると、さらに時代が降った慶長五(1600)年4月、「倉」の築造で荒壁は手打(第三章第八節及び第五章第六節参照)によって付けられ、以下中塗・上塗が重ねられているが、「壁大工」はそのうちの上塗だけの担当老として招かれており、他の工程には関与していなかった。

壁塗

「壁塗」と呼ばれる職種が来て作業に当るのであるが、その内容は「白壁塗」・「土ハカリ」・「扉塗」等、技巧を要する作業ばかりで、その前段階の土の準備や荒壁付には携わっていません。


すなわち、この場合には荒壁工程までと、中塗工程以後の担当者が分かれていたわけです。


また翌年七月末から始まった「庵」の壁工事では、中塗まで終ったところで「壁塗」に対して工賃が一且精算され、上塗は改めて「壁大工」を呼んで別途に発注し工賃を支払っています。


中世以前の左官工事

中世以前の左官工事は、各工程(荒壁・中塗・上塗等)をそれぞれ別の職種によって行なうのを原則としました。


古代のこの事情については既述したが(第三章第八節、第四章第七節)、ここでいままで触れなかった中世末(室町時代)の状況も一瞥しておくとしましょう。


『教言卿記』によると、山科教言は応永12(1405)年の8月から9月にかけて、焼失した自邸再建の一環として文庫を建てた。


その詳細な仕様は明らかでないが、前に見た藤原頼長の文倉と同様、扉まで塗籠にされ、かつ内外とも白壁で仕上げられていたことが知られています。


社会が変わることはない

インターネットFAXのように想像もつかない変化が起きること確かにすごいことですが、技術屋のセンスでかまわないのです。


社会が変わることがありません。


せいぜい面白いことができる、おもちゃのすごいのができたということですから。


ここから先が問題なのです。


今までは映画館が限られた数しかありませんから、素人が映画を作ってもそれを上映してくれる場所がありませんで、自主上映でやるしかありませんでした。

そんなこんなで旅行日記 6

見送りのユースの人たちが声を張り上げて歌っています。


私を見送ってくれる人はいないけれど、私は手を振った。


島にさよならをした。


礼文島。


こんどはいつ来れるのでしょうか。


もう戻ってこれないのか。


紙テープが風にちぎれた。


今日の船はすいていました。


私は座敷で横になった。


少しウトウトして、目が覚めるとノシャップ岬が近づいていました。


振り返ってみたが利尻富士は見えなかった。


空は曇っていて、わずかにうす日が差しているだけでした。


岬をまわり込み、15時稚内港到着。


いったん駅に向かい、コインロッカーにカバンを預けました。


私はバスで稚内温泉まで行ってくることにしました。

以上、だいぶ前の旅日記でした(ヾノ・ω・`)

洋館における天非中心飾

洗練された外壁リフォーム技術は、後に洋風左官工事の受入れを大いに容易にしたはずです。


洋館における天非中心飾や天非蛇腹は、明治開国期の日本人が初めて見るものであっても、漆喰彫刻に経験のある職人にとってはそれほど異質のものとは思われなかったでしょう。


明治初期、特に東京において、設計指導こそお雇い外国人の建築家に仰いだものの、左官工妻荒する洋館の施工をすべて日本の職人で賄い得たのは、右のような技術繋盤かあったからだといわなければならない。

良質の色土

関西の外壁リフォームには大阪土・聚楽土に代表される良質の色土を産するが、東日本、特に関東では地質の関係からこの種の良土は得られず、上塗はいきおい工業製品たる消石灰=漆喰に依存せざるを得ないでしょう。


そのために江戸を中心に漆喰技法に関しては特異な発達を遂げ、守貞漫稿』覧たような磨き壁の土蔵まで造られ、その名祭川馨における土蔵造町家覧られるのであるが、銭絵・漆喰彫刻の盛行もそのような風土と無縁ではあるまい、これらの技法が、長八にはじまるものか、それともさらに以前からの継水であるのかはともかく、彼によって開花した技法は他地区の同種のそれとは比較に絶する。